インターミディエイト(しかし、何と何の?)

長谷川新 (インディペンデントキュレーター)

展示風景 Intermediate / CAI03

私たちは「茶碗むしのもと」を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗むしができたって思っている。だけどそれはただのスイソクに過ぎないと私は思う。私はむしろ、「茶碗むしのもと」を入れてチンしてふたを開けたらたまにマカロニ・グラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 〈第3部〉―鳥刺し男編』

α

生活臭漂う話で恐縮だが、乾燥機付きの洗濯機を買った。大変な出費である。早速、流線形の白いボックスのなかに洗濯物を放り込んで、スイッチを押す。洗剤はタンクに入れておけば自動で計量してくれるそうなのだが(なんならスマートフォンで遠隔操作もできる)、まだ個包装の洗剤がだいぶ残っているので、ひとまずそれを使うことにする。音がしない。動いているのかと丸いガラス面を覗き込むと衣類やタオルがグルングルンと振り回されている。不安になる程静かだが、ちゃんと動いているらしい。数時間後、ほかほかに熱せられた衣類を取り出す。触れ込みどおり、シワが全く入っていない。恐るべし家電の進化。洗濯物を畳んでいくと、2015年秋に買ったお気に入りの黒いニットの上着が二回りほど縮んでいた。次の次の洗濯の際は、ブレーカーが落ちた。どれだけ性能が良くなろうと、無音でことが進もうと、服は縮む。そして、乾燥機は消費電力がすごい。


β

コロナ禍の札幌にて、抽象でミニマルな展示を観た。10年に一度と言われる豪雪に見舞われたものの、奇跡的に来札中は晴天に恵まれた(滑って転んでiPhoneの画面は粉々になったが)。階段を降りたところにある展示室は6つの小部屋に分かれていて、それぞれ着色された光源で均一に照らされている。その中に抽象的な物体がひっそりと佇んでおり、いくつかは、注意すれば気づく程度の遅さで回転している。ごく稀に、音が鳴るものもある。物体はいずれも工業製品のような精巧なつくりで、流線形の曲面は人の手によるものとは思えないほど見事に処理されている。上階の受付を兼ねたスペースには色鉛筆で各面が塗りつぶされたドローイングが額装で展示されていて、どうやらその二次元の抽象的な形態と、階下の抽象的な三次元の物体には何らかの関係が結ばれていることがわかる。これらが一体何なのか、鈴木はその出自については特に隠し立てるようなことはしていない。

                                                展示風景 Intermediate CAI03 photo : 小牧寿里

鈴木はまず都市を徘徊し、観察し、そこで見つけたイメージや事物を具体的な断片として写真に記録する。撮り溜めた写真はさらに観察され、ドローイングに起こされる。さらにそのドローイングが元となって、三次元の物体が制作される。扱うメディウム-素材が転換するたびに、元あった事物は抽象化される。だが情報が縮減していると簡単に言ってしまうことはできない。それはもちろん鈴木の意志が介在しているということでもあるが、他方で、それぞれのメディウム-素材が備えている物理的特性に引っ張られながら形成されていくということでもある。単純な例を挙げるが、下部よりも上部が大きい図があるとして、それを三次元で起こそうとすると、重力によってふらつき、自立しない。少なくない彫刻がそうした形と重力と重心についてのバランスーー困難な条件下で、それでもなお自立していることーーを賭金としているように、鈴木の制作する物体も物理的な諸条件を鑑みられた痕跡がみられる。鈴木はそれを都市の無意識の描出だとする。個々のイメージは元あったソースが何だったのかを窺い知ることは全くできず、あまつさえその都市がベルリンなのか、台北なのか、札幌なのかもわからないほど抽象化されている。最終的にそれはずっと前からそのように存在していたであろう生き物のようにーーグレッグ・イーガンのSFに出てくる、海底に棲息する単細胞生物のコロニーが偶然生み出してしまった仮想現実に生きるイカのようにーー存在の権利を保持しているように見える。逆に言えば、来歴と全く無関係に自律した閉鎖系のように見える。ゆっくりと変わるライティングのプロジェクターも、回転するように組まれたモーターも、彼らの自律性を補強するために導入されている。

                                                         展示風景 Intermediate / CAI03

γ

コロナウィルスは、2020年9月にイギリスで発見されたアルファ株から始まり、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロンと変異を続けていった。鑑賞時に札幌で増殖を続けていたのは、オミクロン株である(2021年11月にアフリカで発見)。形態は本当に変化し続ける。その都度場当たり的にギリシア文字をあてがうことで剥き出しになるのは、いずれウィルスはオメガ株に変異し、それでも止まらずーーもちろん止まってくれないーー変化し続けるはずだという予測である。そしてこの変化には終着地はない。「行けるところまで行く」ことを、「変われる限り変わる」ことを、一種の倫理とするかのような振る舞いである。安易に同時代性で鈴木の作品を語ろうというのではない。考えたいのは、インターミディエートについてである。

インターミディエート、中間体、ある2項の間にある移行状態のもの。こうした建て付けは、無論、固着した既成概念や、普段意識外に追いやられているイメージの肌理を前傾化させるためのものであろう。現実とフィクション、意識と無意識、どちらの側にも属さないような不安定で不定形の何かが、なぜか、輪郭をもつ物理的存在として展示空間に現前している。鈴木はそこに賭けている。三次元化したオブジェクトから個体特定が可能な要素を剥がし、どうとでもとれるようなタイトルを与えることで、慎重にトレーサビリティを奪っている。鑑賞者の前にあるのは、ジオタグとは無縁の、自律し、物理空間の諸条件と折り合いをつけてたたずむイメージである。

展示風景 Intermediate / CAI03 photo : 小牧寿里

さて、ここまで手数がかけられた本展のタイトルが「インターミディエイト」であるとして、しかし、何と何のインターミディエイトなのだろう。イメージは2項の間を揺れ、宙吊りになっているーー両サイドにある2項は不変だと言わんばかりだーーというよりもむしろ、常にすでに別の場所と時間に向かって流れ出している。今この瞬間も。これからミディエイトするかもしれない未然の対象ごと生み出していくように。かつてその一部であった都市さえも書き換えてしまうように。鑑賞者と、制作者と、作品とが、変化することについては同等の権利があるとみなしたところから始まる制作。鈴木の仕事に潜勢しているのはそのような沸き立つ抽象とミニマリズムである。

                                                 展示風景 Intermediate / CAI03 photo : 小牧寿里